ホーム > くらし・安全・環境 > 防災と安全 > 防災・消防 > 関東大震災100年事業特設ページ > 神奈川震災記念館 > 県内各地に残る震災遺構 > 県庁周辺の遺構(横浜市中区横浜公園、日本大通、山下町、南仲通五丁目)
初期公開日:2023年8月25日更新日:2024年10月10日
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キーワード:避難、火災、建物倒壊、外国人被害
※地理院タイルに遺構の位置を追記して掲載
震災当時の横浜市は、建物全潰率約30%、死者数約26,600名、そのうちの約9割が火災による死者という甚大な被害となりました16。
1876(明治9)年に整備された横浜公園は、記念碑(図3.2-1)によると日本最古の公園(太政官布達により1873(明治6)年から1887(明治20)年の間に指定された公園のうちの1つ)で、震災直後には、4~6万名を超える避難者が押し寄せたと書かれています。
横浜公園(図3.2-2)内に震災復興の記念碑があります。記念碑には、「大正十二年九月大震火災の際本市の大半猛火に蔽《おお》はるゝや多数の市民は緑陰池邊《木陰や池辺》に避難して危くも九死に一生を得たり」とあり、多くの市民は避難できましたが、50名程度の死者が発生しました17。
公園内の説明看板(図3.2-3)によると、震災直後は公園内に罹災者住宅や仮設庁舎が建てられていましたが、その後、復興事業の過程で、1928(昭和3)年から翌年にかけてグラウンドとスタンド(兼体育館)、音楽堂が整備されたとのことです。
厳しい状況で多くの方々が九死に一生を得たのは、樹木が多く火災の熱や火の粉を防いだこと、水道管の破裂により水溜りが生じ熱や火の粉を防いだこと、避難場所に家財が待ちこまれなかった(火の回りが速く避難者が家財を持ち出す時間的余裕がなかった)こと、周囲が燃え盛るのに時間差があった(被服廠の場合は同時的)ことが要因と考えられます18。
公園の近く、みなとみらい線「日本大通り駅」すぐのところには横浜地方裁判所があります。1890(明治23)年に北仲通五丁目に建てられた庁舎は、関東地震の激しい揺れによって倒壊したことから、1930(昭和5)年に現在と同位置に庁舎を移転しました。現在の庁舎は2001(平成13)年に竣工したもので、1930(昭和5)年に建てられた旧庁舎の外観を復元した造りとなっており、横浜市認定歴史建造物に認定されています。庁舎玄関の左側に、横浜市の復興が進む1935(昭和10)年9月1日に建てられた慰霊碑があります(図3.2-4)。
慰霊碑には「所長を始め判事檢《検》事辯《弁》護士等多數《数》の殉職者を出し偶《たまたま》召喚に應《応》して出廷せし證《証》人鑑定人其の他訴訟關《関》係人等の厄難を共にせし者も亦鮮《またすくな》からす」と記載があり、執務中の所長のほか、判事、検事、弁護士に加え、訴訟関係者も大勢出廷していた中で地震が起こったことがわかります。また、慰霊碑には「死者の多きこと全市中首位にあり」との記載があるように、94名もの死者が出る悲惨な現場となりました。なお、「大正震災志 上巻」19には建物の倒壊で108名の死者を出したとの記載があり、慰霊碑に記載の犠牲者の数はこれより少ないですが、慰霊碑には庁舎内にいて氏名が判明している人のみが記載されたのであろう20と推察されています。
さらに、みなとみらい線「元町・中華街駅」から沿岸方向へ進むと、山下公園があります(図3.2-5)。山下公園は、関東大震災の復興事業として造成された公園で、横浜市内のがれき等で埋め立てて、1930(昭和5)年に開園したものです。公園内の西端にあるインド水塔は、インド風のモチーフを多分に取り入れた水飲み場の遺構で、横浜市認定歴史建造物に認定されています(図3.2-6)。
震災当時、山下町は壊滅的な被害を受け、横浜在住のインド人も多くの方が死傷し、住家を失いました21。このインド水塔の説明板には、震災時に横浜市が行った外国人商人への救済措置に対する横濱印度商組合からの返礼で、1939(昭和14)年に建てられたことが記されています。こうした支援に対する横浜市民への感謝と亡くなったインド人同胞への慰霊の意味を込めた碑が横浜市に贈られ、現在も残されています。
最後に、周辺にある関東大震災にまつわる2つの県有施設を紹介します。1つ目の神奈川県庁本庁舎は、関東大震災で被災し焼失した第三代目庁舎に代わり、1928(昭和3)年に建てられた、神奈川県の震災復興のシンボル的建物で、国指定重要文化財に指定されています。鉄骨鉄筋コンクリート造り地上5階地下1階建てで、中央部には建物のシンボルである「キングの塔」が立ち上がっています(図3.2-7 神奈川県庁本庁舎)22。
2つ目は、神奈川県立歴史博物館です。1904(明治37)年7月に横浜正金銀行本店として建設され、国の重要文化財・史跡にも指定されています。関東大震災では、地震の揺れには耐えて倒壊を免れましたが、その後の火災により地階を除く内装のほとんどと屋上ドームを焼失しました。その後、1967(昭和42)年3月の神奈川県立博物館の開館にあたり、高さ約19mの「エースのドーム」が復元され、1997(平成7)年からは神奈川県立歴史博物館にリニューアルして保存活用されています23。
16 諸井孝文・武村雅之, 「関東地震(1923年9月1日)による被害要因別死者数の推定」, 日本地震工学会論文集, 4(4), 2004年
17 武村雅之, 「未曾有の大災害と地震学-関東大震災(シリーズ繰り返す自然災害を知る・防ぐ)」, 2009年
18 中央防災会議, 「1923 関東大震災報告書」, 2006年
19 内務省社会局, 「大正震災志」, 1926年
20 武村雅之・都築充雄・虎谷健司, 「神奈川県における関東大震災の慰霊碑・記念碑・遺構(その3 県東部編)」, 2016年
21 (一社)横浜インドセンター ホームページ(2023年8月17日閲覧) https://yokohama-india.org/
22 神奈川県, 本庁舎の保存・活用の取組み(2023年8月24日閲覧)
https://www.pref.kanagawa.jp/docs/rb2/saihen-seibi/hozon_katsuyou.html
23 神奈川県立歴史博物館, 建物のご紹介(2023年8月24日閲覧)
https://ch.kanagawa-museum.jp/cultural-properties/building
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