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初期公開日:2022年8月24日更新日:2024年12月2日
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元・ヤングケアラー、現・若者ケアラーである沖村有希子さんから、当時を振り返った体験談と思いを語っていただきました。
私がケアラーになったのは今から21年前の2001年、小学6年生の夏にシングルマザーの母が交通事故に遭い、重い障害が残り、歩けなくなったことがきっかけです。
当時はヤングケアラーという言葉も知られておらず、ケアラーは福祉支援の対象として見られていなかった他、家政婦紹介所から事業を移行した事業所が、介護士・介助士をヘルパーと呼び派遣し始めたばかり。障害福祉サービスもまだまだ駆け出しで、母自身も福祉サービスを受けることがままならない中、きょうだいや頼れる親戚もおらず、日々の家庭内の家事に加えて、トイレや入浴、身の回りの世話、病院や交通機関など移動中に必要な介助など、2人暮らしを支える為のすべての労を担っていました。
母の入院中に1人で生活した時期もありましたが、日々の暮らしの中で母の教えから一通りの家事の素養があったので、それに苦はありませんでした。しかし母が退院し、2人2脚となってから、歩けない母の全介助に加え、生活保護の申請が通るかどうか、交通事故の訴訟をどう起こすか、中学校に行くための費用をどうするかなど経済的な不安も抱えるようになり、母が担っていた家政の量を思い知りました。
そうした環境の中、私はケアは日常的なものとして育ってきたのですが、日本ケアラー連盟のスピーカーとして、自分の体験を話していく中で気がついたのは、「ケアは自分とは関係ない、どこか遠くの先にあること」「親戚のあの人がやっているもの」など、ケアは自分にとって非日常でどこか遠くにあるものとしている方が多くいることでした。
例えば、車椅子でバスを利用した時、母が使っている車椅子はみなさんがよくイメージする手押しの簡易車椅子ではなくて、車椅子だけで150kgはあるようなかなりガッシリとした固定電動の車椅子なのですが、それを初見するなり運転手さんや介助サービス員の方が「同行者の方がやるのがベストと思うので、お願いします」と、当時11歳のケアラーであった私が公共交通機関の乗降介助をやる時もありました。それをバスのお客さんも黙って見ている。何なら、待たされている状況を迷惑そうにしている。
また、病院で介助を求められることもしばしばあります。病院での介助は基本的に看護師さんなど病院スタッフがする事になっており、ヘルパーさんは病院の中では介助できません。(役所で院内介助が認められれば、その限りではない)しかし、看護師も介助士も手が空かないか技術がないか…、いずれにせよ診察台へ移乗ができないとなると、結局は家族介護に頼ることになります。お医者さんも手伝ってはくれず、その都度、私は小学校や中学校、仕事を休んでその職務を代行してきました。
休んだ事がきっかけで雇われていた職場では戦力外扱いを受け、世帯を支えるために必要なお金が稼げない。自営するしかないと思い、現在の職場である福祉サービス会社を設立するに至るわけですが、その道を選ぶことは決して容易ではありませんでした。
当時から、母と私が訪れた“婦人科”や“整形外科”などの病院の診察台には、なぜ介助リフトを設置した部屋が1つもないのだろうと不思議に思っていました。悪気はなくとも、外出によって出会う街の人々・職域の方がケアを知らないことによって起きてしまう家族へのケア集中で、ケアラー個人の時間、献身的な人材、障がい者自身のプライマルな個人時間はより減っているんです。
上記に挙げたとおり2022年現在、ケアラーの視点からみた社会問題は山積みですが、一方で正解の糸口が掴めそうな時期であるとも思います。
県立の障がい者支援施設「津久井やまゆり園」で19名もの尊いいのちが奪われた事件から6年が経ち、“コミュニケーションが取れない人間は生きていく意味がない”とする犯人の優生思想によって、障がい者やその家族、福祉の現場は大きく傷つき、福祉職に対して悪いイメージを持たれるなどの誤解も生まれました。
1世帯当たりの人員が2.21人(令和2年度国税調査)の日本では、誰もがケアする・される人です。
しかし私や母のように障がいと共にある家庭でも、臆さずに外出し、行政の方・福祉職の方・学校関係の方、地域とつながったことで得られた働きによって、くじけずに生きてこられた今があります。ヤングケアラー・ケアラーという言葉が世間に広く知られるようになった今、みなさんもより自分の身の周りの人を思い浮かべたり、つながりを振り返るきっかけとなっているのではないでしょうか。
障害があっても、外に出られること。行政、学校、仕事、趣味、旅行・買い物など、当たり前に出かけた先で、誰もが分け隔てない対応を受けられること。それ自体が、ケアラーや家族介護の困難な場面を一つづつ減らし、社会での生きづらさや社会福祉全体のキズを回復させるものであると、私は考えています。
ヤングケアラー当時は生きることに必死で、どの大人が言っていることを信じればいいのかわからず、自分の状況や思いを口にすることが難しかったのですが、社会に出て、当時を振り返った今では、自分が生きてきた軌跡をたどることができます。皆さんが支えてくださった自分のいのちに深く感謝し、自分も誰かを支える意味を理解することができます。
これからの地域社会は、ひとり1人が共に生きていく。そのためにも、誰かひとりが犠牲になるのではなく、社会福祉やケアをより身近に感じられる生活、街に暮らす人々や個人のリテラシーが育まれ、良い循環で支えあい営まれる社会であってほしいと、自身の体験から心より願っております。
日本ケアラー連盟 ヤングケアラープロジェクトスピーカー
沖村有希子
このページの所管所属は福祉子どもみらい局 福祉部高齢福祉課です。