更新日:2024年7月2日
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神奈川県の治山事業の歴史
震災とその後の降雨・余震によって、8,632ヘクタールの崩壊地が丹沢・箱根山地を中心に発生した。
震災復旧工事は、1923年から1930年まで、1,913ヘクタール実施された。震災復旧工事は、崩壊地に山腹工、下部の渓流に渓間工を実施し、ヤシャブシやクロマツ等の植栽を行い森林の復元を図る方法で、その後の治山技術の基礎を築いた。
山腹工は階段切り付けの後、水路工により表面水の処理を行い、土留工、筋工、柵工、伏工により物理的に土砂移動を抑止し、かや筋や樹木の植栽で森林の復元を図った。
関東大震災・豆相震災で揺すられた山地に、昭和12年・13年と連続で大水害が襲い、1,189ヘクタールの崩壊地が発生した。
その後、第2次世界大戦中の森林の伐採、戦後の度重なる台風災で荒廃地は拡大の一途を辿った。
1953年の荒廃地調査では、県下全域で8,837ヘクタールと関東震災時に発生した面積を上回る荒廃地が確認された。
復旧は1949年より水源林造成事業を主軸に開始され、治山治水緊急処置法(1960年)制定による治山事業5箇年計画がスタートするに伴い本格的に実施された。
堂平沢地域一帯は、江戸時代から森林の乱伐や明治29年・43年の水害、大正12年の関東大震災等により山地の荒廃が激しく、昭和32年から治山事業による山地荒廃の復旧が進められた。
地域一帯は、丹沢大山国定公園区域内であるとともに、貴重なブナ林やヒダサンショウウオ等の貴重な生物が生息していたことから、自然環境に配慮した治山事業が実施された。
(上段左:被災直後、上段右:緊急治山竣工後、下段:1991年の森林の復元状況を示す)
1972年7月山北町三保地域を中心に襲った集中豪雨(連続降雨530ミリメートル、最大時雨量100ミリメートル)は、死者6名を出す大惨事となった。
山地の状況は、新生崩壊地1,291箇所(157ヘクタール)の発生と、125箇所の荒廃渓流の発生であった。
復旧は緊急治山事業と復旧治山事業により実施された。
このページの所管所属は環境農政局 緑政部森林再生課です。