県内で広がる生涯学習

インタビュー

県内で広がる生涯学習についてお伝えします。
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お城への関心と意識を高めてほしい
小田原の城と緑を考える会

今回お話を伺ったのは、小田原城にまつわる歴史探訪に自然観察などを交えた見学会を定期的に開催している「小田原の城と緑を考える会」会長の田代さんです。国指定史跡「小田原城跡」をできるだけ保存・復元したいという田代さんの強い思いが、長い年月をかけて現在に実を結んできています。自然体で、高い意識を持ち、学び続け、活動されている様子をご紹介します。

堂々とそびえ立つ小田原城天守閣

もっと、小田原城跡のことをみんなに知ってもらいたい!

「小田原の城と緑を考える会」は、どのような経緯で立ち上げられたのでしょうか。

田代:そもそものきっかけは、大外郭、総構(そうがまえ)です。大外郭というのは、土塁と、その外側に空堀、さらにその外側が急斜面になっていて、これが城の全域を取り巻いています。外から攻めてきた敵が、斜面を這い上がってきても深い堀があって中に入れず、ウロウロしているところを城内から一斉射撃しようという狙いで築かれました。高校で生物部の部長をしていた私は、この大外郭周辺を植物や野鳥、昆虫などの調査のため毎日のように歩きまわっていました。その時、大外郭の惨状に気づいたのです。かろうじて痕跡が残っているところもありますが、深い堀が邪魔になって、土塁を崩してその土で空堀を埋め、平地にし、畑になったり家が建てられてしまっている。つまり、安易に崩されてしまっている箇所が多くあることに、そのころから危機感を持っていたんです。

そして、昭和30年頃の話です。小田原市がこの一帯の開発計画に力を入れ始めていく中で、私は、遺構がどんどん壊されていくことが不安で、「残っているところだけでも、とにかく国指定にしましょう」と、市役所に何回も足を運んでいました。ところがそのうち、文化庁(当時は文部省)から、「昭和13年にすでに国指定になっているようだ」との連絡が小田原市に入りました。昭和13年というと、小田原はまだ「町」で、15年に「市」になったので、うまく引き継がれなかったのか、あるいは、昭和16年以降の戦争の影響によるものか、いずれにしても、私が「国指定にしましょう」と持ち掛けるまで気付いていなかったという、嘘のような本当の話です。

その後にも、銅門(あかがねもん)の跡地に市庁舎を建てるとか、競輪場の駐車場を城郭の中に広げたいとか、そんな話がどんどん出てきて、その都度、働きかけては取りやめてもらうということを繰り返してきました。

そこで、気づいたんです。こんなことが果てしなく続くのは、市民のお城に対する関心や意識が薄いからではないかと。それじゃあ、もっと、小田原城跡のことをみんなに知ってもらおう!と思って、「小田原の城と緑を考える会」の前身にあたる「小田原城郭研究会」の有志5~6人で、見学会を始めたんです。毎月1回、日時と集合場所だけを決めておいて、晴れでも雨でも、1年間、その日は必ず見学会をやりました。そして、最終回の12回目、見学会が終わった夕方、参加者の方々に最後のあいさつをしたら、「これからも市役所への働きかけなど、我々も手伝うから、会を作ってくれないか」「これで終わりにしないでほしい」と言って、みなさんが解散しないんですよ。こうして、「小田原の城と緑を考える会」が発足しました。これが昭和56年です。

ただ、会の名称や、会長、副会長、会計などを決めるところまで立ち会って、私は身を引きました。「城郭研究会」の調査活動のほうに注力したかったんです。でも、そのうちに「小田原の城と緑を考える会」の活動がマンネリ化してきたことなどもあり、発足からちょうど10年後、再び私にお声がかかり、会長を引き受けることになりました。

見学会も、幅を広げていきました。「小田原から江戸へ出ていった人たち」をテーマにした企画では、小田原北条氏が滅んで家康が江戸城を関八州の大守の城にするにあたり、小田原城の石積みの技術が素晴らしいと言って石工たちを抜擢し、石揚げ場にした日本橋の「本小田原町」や、築地の「南小田原町」をはじめ、町人たちが小田原から江戸へ移住した地を追跡して、訪ねました。「青物町」や「万町(よろずちょう)」などは、今も小田原と東京の両方に町名が残っているんですよ。また、お城を勉強するための基礎として、我が国最古の神社のひとつ諏訪大社を見学し、古来から多くの武将が武神として信仰した神々や、神社神道について学びました。琉球に行った時は、着いてまず海岸に行き、サンゴの石灰岩を積んで城とした古城を見学しました。首里城など琉球の城の石垣は、一般によく知られる「直線」ではなく、「曲線」を主体にした特殊な構造をしているのですが、美しい曲線を作り出すのに、加工しやすい素材である琉球石灰岩について学びたかったのです。創立20周年の記念行事では、朝鮮のお城にも行きました。秀吉の軍勢が朝鮮出兵の後各地で籠城し、短期間での築城を迫られた危急の時機に、かえって石垣の積み方の要領を体得、帰国後に、急速に石垣積みの技術がレベルアップしたことなんて、誰も解説しませんからね。こうして、会は今も活動が続いています。

絵図面を指しながら詳しくご説明くださる田代さん

とにかく自分で「調べる」、これが学びの基本

活動を通して得られた学びというものはありますか?

田代:そうですねぇ。例えば、天正18年、秀吉が22万の大軍で攻めてくるというので、何とか守らねばと、飛躍的に拡大した小田原城の総構大外郭は全周約12km、中世最大といわれています。その全容を調査するには、発掘という手法もありますが、小田原城は国の史跡指定を受けている遺構で、発掘調査は限定されているんです。それに、遺跡の特質上、最古は縄文時代、その上に弥生時代、そのはるか上のほうにお城の時代があるわけですから、縄文時代や弥生時代の遺跡まで発掘調査をすると、お城の時代はもう無くなってしまう、だからなるべく掘らないほうがいい、では、掘らないならどうやって調べるのか・・・。幸いなことに、小田原城については各地にたくさんの絵図面が残っていました。でもね、絵図面は城の機密文書で、まず、製作年代すらわからない。そこで、各図中の人の姓名、社寺の名前、年代、系統など、とにかく細かく追究したんです。ある程度まとまった状態で現地と照合してみると、それは有効なテキストになってくれました。こうして、図面と遺構の双方から小田原城の発展と消長の概略が見えてきたんです。とにかく自分で「調べる」、これが学びの基本ですよね。

もう一つ、大外郭の一画に、私が「荻窪口」と推定した虎口遺構があります。江戸時代からある山番の家のおばあさんに聞いた話では、「毎日朝夕に、虎口の門の開け閉めをしていたけど、実は、うちは、忍者だった。忍者の道具もたくさんあった。山番は、城山の中に4軒常駐していた」と。山地の北条氏時代遺構の範囲が「御留山」として閉鎖されている中で、どのように管理されていたのか、その一端がこの話から見えてきました。絵図面の検討から自分の足で遺構を追い求めた際の副産物のひとつですが、こんな話は、掘っても、測ってもわからないでしょう。ありとあらゆるところから、聞いて、調べて、重ねて、つなげて、ともすると、嘘八百の情報の中に混ざっている、たった一つの真実を見つける、これが学問だと思うんです。

喜びよりも、「このままでは無くなってしまう」という危機感から

活動をしていて、やりがいや喜び、手ごたえなど、やってきてよかったなと感じるのはどのような時でしょうか?

田代:喜びというよりも、やらなきゃダメになっちゃう、知らん顔していたら消えちゃうという想いが強いです。お城とは少し離れますが、松永記念館や老欅荘なども、あやうく取り壊されるという話がありました。上野の国立美術館から展示物を借りてきて、展示できる施設は、小田原では松永記念館しかありません。空調、防火設備などが完備されていて、ここなら大丈夫ですよと、貸していただける市内で唯一の展示施設です。松永安左ヱ門は、産業計画会議を独自で組織して、日本中のトップレベルの学者を集めて戦後の復興のルートを築くなど、日本にとっても重要な人物。政界では大磯の吉田茂、財界では小田原の松永ありと言われたほどの人です。それなのに、この大切な記念館や彼の住居を撤去するなんて!と、猛反対した結果、今もちゃんと残っています。手ごたえと言えば、これも大きな案件のひとつでしたかね。これから先、まだ何があるかわかりませんけど(笑)。

苦労していることや、難しいと感じることはありますか?

田代:そうですね、今ですと、大手門の復元でしょうか。大手門跡の目の前にあった市民会館が取り壊されて、天守閣までの見晴らしはとても良くなりました。しかし、天守閣と本丸と大手門はセットなのに、今は大手門がないんです。大手門がどこにあったか、市民でも知らない人が多いんじゃないかな。駅前の案内板に「小田原城正面入り口」と書いてあるのを見るたびに、がっかりします。「小田原城大手門跡」となぜ言わないのか、って。小田原城下を東海道線が走っているのですが、天守閣は見えても、どこからもお城は見えません。市民会館が撤去されて、大手門跡から天守閣までの小田原城の全容が展望できるようになった、この貴重な空間を失いたくない、そのためにも、まずは大手門を復元させて、ここからさらにお城の景観を整えていきたい、これが当面の私たちの課題のひとつでしょう。

「道楽」だと思ってやっているから続く

田代さんにとって「生涯学習」をひとことであらわすと、どのような言葉になりますか?

田代:「道楽が過ぎる」ということでしょうか。「道楽」だと思ってやっているから続くんでしょうね。道楽が過ぎるから、結果、それが学びにつながっていくのかな。

最後にひとこと、メッセージをお願いします。

田代:「もういいや。」だけは、およしなさいよ。と、言いたいです。特に歳を重ねていくとね、心も体も、なかなか思うように動かなくなりますが、「もういいや。」って、あきらめていたら、余計動けなくなりますから。

田代さんは、取材をした7月にお誕生日を迎えられて、なんと御年90歳。とてもお元気で、パワフルで、お話が終わった後は、エネルギーを少し分けてもらったような気分になりました。学びに対する意欲も積極的で、わからないことがあると、静岡県沼津の図書館や横浜の県立図書館にまで足を延ばすこともあるそうです。好きなこと、興味があることを探究するところまでは、きっと誰もが本能的に動けるかと思いますが、田代さんは、さらにそれを周囲に広め、浸透させて、地域や社会に影響を与え、結果を残されています。なかなかこの域に達するのは難しいので、まずは「好き」を見つけて、心地良く「学び」を積み重ねていくところから始められたらいいですね。

2024/09/28

プロフィール

小田原の城と緑を考える会

小田原北条氏の城郭遺構を中心に、関連する城郭遺構や歴史について研究しています。歴史探訪に自然観察などを交えた見学会を2か月に1度のペースで、年間計6回開催、そのうちの1回は宿泊を伴います。 設立は、昭和56年(1981年)。
URL:https://umeco.info/knowledge/group-database/detail.html?clb_code=472

会長の田代道彌(たしろ みちや)さんは、昭和9年(1934年)小田原生まれの小田原育ち。箱根の強羅公園の園長を平成6年(1994年)まで30年間務められました。関東大震災後、放置されていた公園を田代さんが徹底的に調査して「フランス式整型庭園」だったことを突き止め、昭和32年(1957年)から強羅公園は本来のスタイルで整備を進めることができたというエピソードもお持ちです。「県自然環境保全審議会」の委員も10年に渡りお務めいただき、現在も「小田原の城と緑を考える会」の他、「小田原城郭研究会」「箱根を守る会」など様々な活動に携わっていらっしゃいます。植物や茶道にも精通されています。

活動の様子:駿府城見学会(2015年1月)